
2ヶ月更新しないでいると、それが当たり前になる。怖いものだ。
人は、毎日情報を外界から得ている。どんなに些細なことであろうとも必ず情報を得ている。そして、それを自分の中の「顕在意識」で咀嚼する。ときには「潜在意識」や「深層心理」に潜む自分の究極の価値観と照らし合わせることすらする。そして、判断しアウトプットする。これが「解釈」だ。
人間社会というからには、一人で生きているのではないことは自明だ。すると、自分の「解釈」というアウトプットは他人のそれと関わりをもつことになる。
これが、「対話」「論」だろう。批判、批評を受けることもあるだろう。
そして、またそこからインプットし、咀嚼し、解釈する。この繰り返しこそが、「考える」という作業のように思える。
さらに、人は生き物であるかぎり「営み」が必要である。さきほど述べた「考える」という行程は、脳の中で完結する作業である。厳密には、脳と耳と口と目が必要であるが。「営み」には、「汗」が必要になる。体を動かせて「行動」しなければならない。
今、こうしてキーボードを叩いているのも、ある意味行動だ。「阿倍野の人々の健康を守りたい」と脳の中で素晴らしい策を想い付いても、「汗」をかくまでは「空論」である。「評論家」ならそれでいい。
しかし、私達は、実務家である。生き物である。「営み」が大切だ。
こうしてみると、「考える」という行為、狭義には「脳の中で完結可能」だが、私達の実社会で考えるならば「行動」にまで現れなければ、無意味にだとも言えそうだ。
何度も同じミスを繰り返しながら、「頭では分かっているんですよ〜」と言い訳をする部下を見て「考えてないな〜」と感じてしまうのは、無理もない。実際は私達が見ているのは「行動」なのに、「考えてない」と感じてしまう。頭の中での出来事は絶対的に見えないにも関わらず、そう言ってしまう。
何が言いたいか・・・。
私は、この2ヶ月頭の中では、考えていました。しかし、何の行動もしなかったと言っても過言ではない2ヶ月でした。廃人状態でした。
結果として、私は考えていなかったのです。何も考えてないアホになってました。「考えない」ということが分かって、おかげで「考える」ということも分かりました。
さて、筑紫哲也さんが亡くなりました。きっと、無念だったでしょう。病気と闘って、そして打ち勝ってニュース23のいつもの指定席に帰ってくると、視聴者に約束したのに。
彼の遺した文章と、映像に「考える」ということの本質を見ました。
周りのたくさんの人々と「論」をしたいと思います。
そして、行動レベルできちんと「形」を残したいと思います。
それが、考えるということだと感じました。
PS:「お前のブログをネタに喋ることもあるねんから、ちゃんと書けよ!」と言ってくれた同級生Hに感謝。古くからの友人を大切にしなければならないことを再認識。